満月の夜にだけ、町の外れの細い路地の奥に、小さな図書館が現れます。昼間はただの空き地で、古い掲示板が一枚立っているだけなのに、月がまるく昇る夜になると、そこには青い屋根の建物がそっと建っているのです。
その図書館の名前は「月夜図書館」。ドアを開けると、紙とインクと、かすかに甘いお茶の香りがします。司書さんは銀色の髪を三つ編みにしたおばあさんで、丸い眼鏡の奥の目がいつも笑っています。
ある満月の夜、小学五年生のミナが、迷い込むようにそのドアを開けました。
「いらっしゃい。初めてのお客様ね」 「あの、ここ、図書館ですか」 「ええ。ただし、ここにあるのは、まだ書かれていない本ばかりよ」
棚を見ると、本の背表紙には題名がありません。真っ白な背表紙が、どこまでも並んでいます。
「まだ書かれていない本は、貸せないのでは」 「貸せますとも。読む人が決まれば、言葉は自然に浮かんでくるの」
司書さんは一冊の本を抜き取って、ミナに渡しました。開いてみると、最初は真っ白だったページに、少しずつ文字がにじむように現れてきました。
それは、おばあちゃんの若い頃の物語でした。ミナの知らない、十六歳のおばあちゃん。川で泳ぎ、夢を語り、初めての恋に胸を痛める、見知らぬ少女の毎日。でも、笑い方と、困ったときの口癖は、今のおばあちゃんとそっくりでした。
ミナは夢中で読みました。月が空の真ん中を過ぎる頃、本は静かに終わりました。最後のページには、たった一行だけ書かれていました。
「この物語の続きは、あなたの毎日の中にあります」
「この本、誰が書いたのですか」 司書さんは眼鏡を押し上げて、にっこりしました。 「未来の誰かよ。もしかしたら、ずっと先のあなたかもしれないわね」
返却期限は次の満月まで。ミナは本を抱えて家に帰り、その夜、おばあちゃんに電話をかけました。
「ねえ、おばあちゃん。昔、川で泳ぐのが上手だったって本当」
電話の向こうで、おばあちゃんはしばらく黙って、それから子どものように笑いました。その笑い声を聞きながら、ミナは思いました。まだ書かれていない物語は、きっと、誰の毎日の中にもあるのだと。