第13話 引っ越しの夜に

夜の郵便局 著者:ミオ

その手紙の宛先は、人ではなかった。「お世話になった家へ」と書かれていた。  書いたのは、一人暮らしを終えて、娘の家に移ることになった老婦人だった。四十年住んだ家。夫を見送り、子どもたちを育てた家。引っ越しの前夜、彼女は感謝の手紙を書き、玄関に置いて眠った。けれど当日の慌ただしさで、手紙は置き忘れられた。 「家への手紙は、家に届けます」星野局長は言った。  透は夜更けに、空っぽになったその家を訪ねた。ポストに手紙を入れると、家の中から、きしむような小さな音がした。風の音か、それとも家の返事か。  引っ越しの前夜、老婦人は家の中をゆっくり歩いた。台所の壁には、子どもたちの背丈の印が残っている。廊下は夫が朝、新聞を取りに行く時の足音を覚えているようだった。彼女は部屋ごとに立ち止まり、「ありがとうね」と小さく声をかけた。手紙は、その挨拶の総まとめだったのだ。 「この手紙は、家への置き手紙ですね」星野局長は言った。「家は、人の暮らしをずっと見ています。届ける価値のある相手です」  数か月後、その家には新しい家族が入った。若い夫婦と小さな子どもだった。引っ越しの荷物の中から、前の住人の手紙が出てきたという。置き忘れられた手紙を、新しい住人が見つけたのだ。 「この家は、たくさんの幸せを見てきたのですね。私たちも、大事に住みます」  夫婦はそう言って、手紙を窓辺に飾った。家はまた、子どもの笑い声で満たされるようになった。  新しい家族の子どもは、手紙のことを聞いて、庭の隅に花を植えた。「前のおばあちゃんの家だから、花があるといいと思って」。夫婦はその言葉に笑って、水やりの当番表を冷蔵庫に貼った。家は住む人が変わっても、前の住人の温かさを引き継ぐことがあるのだ。   夫婦は引っ越しの挨拶回りで、近所の人から前の住人の人柄を聞いた。手紙の残る家は、町でも評判の、温かい家だったのだ。  出せなかった手紙は、時に、知らない誰かへの贈り物になる。