宛名のない手紙が、局に届いた。封筒には何も書かれていない。中には便箋が一枚。 「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。私が弱っていた時、黙ってそばにいてくれたこと、忘れていません。伝えたかったのに、うまく言葉にできなくて、ごめんなさい」 誰から誰への手紙なのか、局員にもわからなかった。 「こういう手紙はね、封筒が覚えているんです」星野局長は、封筒をそっと持ち上げ、夜の窓辺に置いた。しばらくすると、月明かりの中で、封筒の隅に淡い字が浮かび上がった。書き損じて消したはずの、宛名の跡だった。 「見えますか。心が強く押した字は、消しても残るんです」 浮かんだのは、山あいの小さな診療所の住所と、医師の名前だった。書いたのは、その診療所に長く通う女性。難病を支えてくれた医師への感謝を、直接言うのが怖くて書いたのに、渡す直前で怖くなって、宛名を消してしまったのだ。 透は山道を自転車で上り、夜明け前に診療所へ届けた。 山道の配達は、局でも指折りの難路だった。透は懐中電灯を片手に、獣道のような細道を登った。途中で息を切らした時、墨が先の岩の上で待っていてくれた。診療所は山の中腹にあり、夜も小さな灯りが残っていた。往診から戻ったばかりの医師が、患者のために灯りを残すのだという。 「あの灯りが、この手紙の届け先でしたね」帰り道、透は星野局長に言った。 翌週、その女性の診察の日、医師は穏やかに言ったそうだ。「手紙、届きましたよ。こちらこそ、ありがとう」 女性は帰り道、山の景色がいつもより明るく見えたという。 次の診察の帰り際、彼女は小さな封筒を、受付ではなく医師の手に直接渡した。今度は、宛名の書かれた、短い近況の手紙だった。「この前は、ありがとうございました。少しずつ、元気になっています」。震える手ではなく、確かな手で渡された手紙に、医師は深くうなずいたという。届ける勇気は、一度届いた手紙が育ててくれるのだ。 宛名のない手紙も、夜の局では、迷子にならない。